シン・エヴァを観ました

  • はじめに

2021年3月8日公開の「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」(以下、シン)を観た。1995年にTVアニメが放送開始され、97年に劇場版(以下、旧劇)、2007年のヱヴァンゲリヲン新劇場版:序からの4部作(以下、新劇)の完結編である。1987年生まれの自分は所謂エヴァ直撃世代ではないけれど、エヴァ以降に生み出された様々なポストエヴァ作品の中で生きてきた世代だったのでそれの完結に立ち会えるというのは非常に感慨深い思いだった。と、同時に本当に終わるのか半信半疑な思いでもあった。コロナの影響で度々公開日が伸び、ある意味でエヴァらしい延期を繰り返して封切りを迎えた同作だったが、今回私は幸運にも公開初日に何のネタバレ等にも触れずフラットな心持ちで鑑賞することができたので備忘録的に同作の感想やエヴァにまつわるあれこれについて書いてみようと思う。なお、この記事は考察等を目的とするものではなく、あくまでも一つの物凄い作品群の終焉をリアルタイムで見届けた興奮をなるべくその時の気持ちのまま文章にしたいという趣旨の投稿なので、文章としての体裁を保っていないメモのようなものである。思ってること、考えてることを写真のように保存できたら一番良いのだけども残念ながらそれは不可能なのでこうして吐き出しておきます。なお、当然ながらネタバレを含みます。 

そもそも全ての始まりであるTV版新世紀エヴァンゲリオンは何がどう凄いアニメだったのか。今更語るまでもない話かもしれないが今の自分なりに思ったことから述べていく。なお、こんなことは初めてエヴァを見た小学生の頃には考えてもなかったことであり、新劇を含む様々なポストエヴァ作品に触れる中で感じたことである。

難解な設定、様々な内面的要素がありながらもエヴァの基本構造は主人公が敵と戦いその過程で成長していく成長物語(ビルドゥングスロマン)だ。この作品類型の最もベーシックな構図は、主人公=正義で敵=悪であり、正義の味方たる主人公が様々な困難に直面しながらも敵を倒すことにより人類なり国家なり家族なり恋人友人を救い、それを観る人々は素直にその過程に感情移入していきカタルシスを得るというものだ。しかし、1970年頃からベトナム戦争をはじめ社会の性質が変化していく中でこうした善悪二元論に人々が同調することが難しくなってくる。それまでの主人公は何の疑問も躊躇もなく悪である敵を打ち倒すことのみを考えていればよかったのに、それまで絶対的な悪であった敵さんサイドもよくよく考えたら相応の正義や信念に基づいて行動しており、むしろそれに対して手を下す主人公サイドこそが従来の悪なのではないかという課題に直面してしまう。詳しいエンタメ史についての話はここでは避けるが、とりあえず1979年の機動戦士ガンダム辺りから「正義の味方がどう悪者を倒すか」、という物語構造から「どっちが正義か悪か分からない中でどう戦っていくか」という物語構造の作品が増えていく。つまり、作品の造り手はどういった理由付けをして主人公を戦わせるのか、その中で主人公はどのように成長していくのか、を描くことが必要となっていった。こうして様々な作品が生まれ様々な主人公を戦わせる理由が生まれていった。しかし時が経つにつれ、社会の情勢はますます変容していき若者の大人への不信感は募り従来の理由付けで感情移入をさせることがどんどん難しくなっていった。そんな中、1995年にTVシリーズ新世紀エヴァンゲリオンの放送が始まった。(例えば、ファーストのアムロはうまいこと戦う理由を見つけて辛い戦いの中で内面の成長を得ていったが、次作のZガンダムでは敵味方、正義悪について考えすぎた果てにカミーユは精神がおかしくなってしまった。このように従来の構図で主人公がバッタバッタと敵をやっつける作品を作るのはどんどん難しくなっていく。)

エヴァの魅力はケレン味溢れる独特な演出(所謂明朝体エヴァフォントとか)や、それまでのガイナックスアニメで培われてきたメカ好き男の子のロマンを4回蒸留したかのような精緻なメカ周りの描写や設定、そして難解で解釈の余地があるストーリーなど本当に数え切れないほどだが、最も画期的だったのは前述した主人公をどう戦わせるかという問いに対して「戦わない=エヴァに乗らない」という回答を提示したことだったと思う。なんだか訳のわからない使徒とかいう敵が攻めて来てとりあえず自分だけが操縦できる人型ロボットに乗ってそれを倒さないと人類が滅亡するかもしれないという状況の中、戦う中で色々と辛い経験をしたシンジくんが選んだ答えは「じゃあもう色々辛いし乗らなくてもいいじゃん」だったのだ。「乗らない!」→「おめでとう!」こんな形でTV版エヴァは話にオチをつけた。当時は2000年が間近に迫った90年代後半、戦う理由にリアリティを見出すことがどんどん難しくなっていった中こうしたオチをつけた作品はまさに画期的だった。らしい。らしいというのは当時自分は小学生でありそこまで考える頭なんかなかったからである。ただ、こうした物語構造上のテーマは別としてもTV版の短いシーンを次々と切り替えるOP映像や、グロテスクなエヴァンゲリオンの造形、大げさでカッコいい、それでいて現実離れしすぎていない出撃シークエンスなんかの映像は男の子の心をくすぐるのに十分すぎるほどだった。しかしそもそも小学生の自分でも単純にエヴァってなんかかっけー!と思うほどの作品が、前述した一見投げやりにも見えるオチで幕を閉じたことは賛否両論あったらしく、作品にケリをつける為に97年には旧劇が公開。が、そこで明示された回答は例の「気持ち悪い」で表現された「現実見な??」というメッセージだった。TV版で感銘を受けた多くの視聴者は、シンジくんに感情移入をしていた。それまで色々と戦う理由を作られては辛い戦いを現実でもエンタメでも強いられてきた中で「戦わない」選択を肯定してくれたこの作品はまさに題名の通り福音であった。それなのに、心の葛藤に対して自己の内面に籠もることで一定の結論に辿りついたシンジくんもろとも、視聴者はそれを客観視され「気持ち悪い」という言葉を浴びせられてしまったのだ。内面に籠もってても結局は問題の解決には至らないから、ちゃんと現実と向き合いなさいね、というお話をされてしまったのだ。ただ、ここで問題が生じる。この作品では「どうやって現実に還るか、向き合うか」までの答えは提示されなかったことである。「もう何もしたくない」という主人公をどうやってもう一度立ち上がらせるか、動機を失ってしまった主人公にどのようにして動機を再獲得させていくのか、このような問題点を残して旧劇は幕を閉じた。更に物語構造上のこうした問題に加えて、話の本筋部分の多くの伏線が未回収となってしまった。その為にエヴァは完結した作品のはずなのに未完結のような印象を与え、視聴者はみんなモヤモヤした気持ちを抱えながら生きていく羽目になった。その後、エンタメ作品ではこうしたエヴァの問いかけに答える様々なポストエヴァ作品群が生まれていく。「もう何もしたくない」、戦う動機を失った主人公にいかにして動機を再獲得させるか、様々な作品でクリエイターはこの問に答えていった。(以下、TV版、旧劇を併せ旧作)

  • 序、破、Q

そんなこんなで時は流れ2007年、ガイナックスを離脱してカラーを立ち上げた庵野秀明が満を持してヱヴァンゲリヲン新劇場版:序を発表。公開前までは半信半疑だった当時のエヴァを知る人達も、鑑賞後はどうやらこれが単純なリメイクではなくエヴァに対して一定の解答を示す物語だと気付く。そして2009年に続編である破が公開。破の最終盤、TV版とは異なり自分の意志で以て綾波を救い出そうとするシンジくん。ポストクレジットシーンでは槍にブスっとされてしまうが従来とは異なる激アツ展開に次回作への期待感は高まるばかりであった。王道への回帰か、どういう過程を経てシンジくんは旧作と異なり現実に還る選択をするのか、そして何よりポストエヴァ時代を作った庵野秀明自身が動機の再獲得という問いに対してどのような結論を出すのか。そうした中で2012年に公開されたのが物議を醸し出したQだった。

旧作と新劇のシンジくんはどこが違ったのか。旧作でも、新劇のラストにあたるゼルエル戦が描かれる「男の戦い」ではシンジくんは自らの意志でエヴァに乗るためにネルフに戻っている。この点、新劇もここまでの展開は概ね同じように思えるが、序、破のシンジくんは旧作よりもより強い意志で以て一貫して行動を起こしているようにも見える。というか多分そう見せていた。なので恐らく破のシンジくんはTV版のシナリオに沿ってラストの展開までたどり着いた場合「もう乗らない」という選択をとらずに何らかの形で未来を選択するのではないか、それが一体どう描かれるのか、そうした期待感が少なからずQを観に行った人たちの中にはあったように思う。もちろん自分もその一人だったが。が、蓋を開けてみると、いつの間にか時は経ち世界は14年後、周りは知らない人が増えてるし、なんかアスカとマリはよくわからない相手と戦ってるし、世界は自分のとった行動のせいでとんでもないことになってるし、何よりそうまでして救いたかった綾波すらも救出に失敗してるしで劇中世界はえらいこっちゃであった。挙げ句の果てにそれまで乗りたくもないエヴァに乗れ乗れと背中を押してくれたミサトさんからは「何もしないで」と言われる始末。恐らく自分がエヴァに乗ることで世界を何とかすることができ、それは自分にしかできないことだと薄々自覚があったシンジくんからしたら堂々の戦力外通告であり主人公剥奪宣言である。結局、シンジくんは自分がやらかしたらしい世界を何とか元に戻そうと奮闘するも、それも虚しく結局よりエラいやらかしをしでかしたところで物語は幕を閉じた。 

その後、エヴァは長い冬眠期間に入ることとなる。この間、庵野秀明鬱状態に陥ってしまったことが後に公式から発表され、エヴァの次回作の前に制作されたのがシン・ゴジラであった。エヴァゴジラ自体には演出上の要素はさておき直接的な話の繋がりは一切ないものと思われるが、エヴァ以降、物語構造上動機を失った主人公にどのようにして動機を獲得させるか、という問いに対して、個人という枠組みを超えて国家という枠組みを動かすことで問題を解決する。という一つの結論を提示した。徹底的に日本の権力構造をリアルに描いたことで、この解はより説得力を持ち興行的な成績はともかくポストエヴァ問題に対する庵野秀明自身の解を明確に示した作品の一つとなった。 

以上が前提でようやくシンエヴァの話である。なお、今までの話はすべてあくまでも物語構造上から読むエヴァンゲリオンという作品の見方であり、ストーリー上重要な伏線だったり色んなインパクトの発動条件だったり画作りの方向性だったりそういうものは全て無視している。それでもこんだけ話さないと前提にすら至れないのだからエヴァという作品の業の深さにはただただ感嘆するばかりである。

結論から言うとシンジくんは最終的にエヴァの問いに対し「それでも現実に還る」という決断を下した。かつて選んだ「何もしない」という選択肢や「全てをやり直す」という選択肢もある中で、きっちり自分のしたことに責任を持ち、自らの手を汚す決断をして現実に還ったのである。

今回のエヴァは全関連作品を通しても屈指の分かりやすさだったように思う。これを見た後だとシンの公開タイミング次第ではQもあそこまで色々と酷評されなかったのではと思うぐらいに、Qが文字通りQuestionの作品でそのほとんどにシンがアンサーを示している。冒頭のパリ攻防戦シーンは事前に公開されていたものだがあの時点でヴィレの目的、敵対構図、最終目標がまず観客に対し明示される。Qではあまりにも唐突な出現で分かりにくかったヴィレという組織だったが、今作では1.ヴィレとネルフは敵対していること。2.ヴィレの目的はネルフ側のエヴァンゲリオンの殲滅であること。3.アンチLシステムによって人が住めなくなった土地を復旧すること、などが一連のパリでのシーンではっきりと描かれる。これは、Q冒頭いきなり始まるマリとアスカが良くわからない何かと戦っている戦闘シーンと対象的である。

Qでは破のラスト後にニアサードインパクトと呼ばれる現象(ニアサーってみんな言ってるのなんかいいよね)が起きて何かよくわからないけど世界がエラいことになってあれから14年の時が経っている、ということが説明される。が、あくまでも劇中で描かれるニアサー後の世界はカヲルがシンジくんに見せた風景ぐらいだし、14年の空白についてもヴィレクルー以外の人間と接する描写がない為本当にそうなっているのかが分からない。ヴィレクルーの中の元ネルフメンバーを見るとその容姿からどうやらそれなりに時間は経っているということは分かるけども外界を観測していないので本当かどうか確かめようがないし、ヴィレクルー(と冬月とゲンドウ)以外の人間がニアサー後の世界でどうなってしまったのかも分からない。どの程度の範囲で人類は死滅したのか。トウジやケンスケは生きているのか。生き残りがいたとしてどのような生活を営んでいるのか。全て想像に委ねるほかない。これに対してシンではエヴァとしては本当に珍しいことにQラストシーンのアスカとアヤナミとシンジの三人が歩きだす場面の直後から本編が始まっており、前作のように時間の連続性の問題で観客を困惑させることがない。そして、トウジやケンスケ、委員長などかつての知り合いによって実際に14年の歳月が流れたこと、エヴァパイロットのみが肉体的に年をとっていないこと、そしてニアサー後もそこそこ生き残った人がいたことなどが明示される。かつて宮崎駿エヴァには市井の人々の描写が欠けている点について指摘をしていたが今作では主にアヤナミを通してそれらの人々の日常を結構な尺を使い描写する。これまでの三部作も含めてエヴァには基本その他大勢のキャラクターとコミュニケーションをとる描写がなかったので、今作で農業をやっているおばちゃんたちに可愛がられるアヤナミのシーンはかなり新鮮だった。アスカも含めて後述するが、自分にとってはエヴァの女性キャラクター(主に綾波、アスカ)は所謂キャラクター推しのような範疇ではなく綾波、アスカといった記号、属性のような存在だと認識していたので、風呂場でおばちゃんたちからアヤナミが可愛い顔してるねーと言われるシーンは中々衝撃的だった。そう、普通に考えれば綾波レイの顔はかわいいのだ。そして結構話題となっているアスカとケンスケの関係性。なんというかエヴァのキャラって基本的にシンジくん以外との関係性をこれまで想像できなかったので後半で出てくるアスカの頭を撫でるケンスケのシーンも含め、ああ、こいつらも自由意志を持ったキャラクターだったんだ…と若干のショックを受けた自分に驚いた。なお、個人的にはアスカとケンスケは、ネルフ戦前のアスカの「先に大人になった云々」の話も含めて何らかの肉体的な関係はあったものの、結局年齢を重ねないアスカと老いる自分との現実から恋愛関係のようなものにはならなかったのではと推測する。知らんけど。

エヴァはこれまで登場人物が自分の口で今の自分の心情をきちんと説明するシーンがあまりなかった気がするが、ここでもシンではシンジくんが引きこもっている自分の心情を自分の口から説明させてあげている。その前の段階でアスカが推測して代弁しているのに加え、シンジくんは自分のやらかしで世界をブチ壊したのにそれの被害者である何の関係もない人達が自分についてとても優しくしてくれていることへの情けなさや罪の意識でダウンしていることを素直に白状する。しかしまぁ今まで「なんでみんなそんなに僕に厳しいんだよもっと優しくしてよ!」と言っていたシンジくんが「なんでみんなそんなに僕なんかに優しくしてくれるんだよ!」と言う日がこようとは。この点についてはミサトさんも同様で、破とQで相当ネタにされた「行きなさいシンジくん」からの「もう何もしないで」までの豹変っぷりをこれまたエヴァでは相当珍しい気がする回想シーンと共に何故そんな発言をするに至ったかまで説明してくれている。更に後半では、Qでの面会時にアスカがシンジくんに怒りをぶつけた理由をQ&A方式で答え合わせまでしてくれている。こんな親切なエヴァ今までにあっただろうか…話は脱線するが、シンの予告でニアサー後なのに何故か制服のリボンを結ぶシーンがあることがどうしても気になっていたのがあんな形で描かれたのは少し感動してしまった。単なるイメージビジュアルだと思っていたのに。

鑑賞時は少し全体の尺と比べて冗長かな?と思った村でのシーンだったが、今になって考えるとシンジくんはあの辺でほぼほぼ覚悟を決めていたんだろう。助けようと思った綾波は既にいないし、優しくしてくれたカヲルくんも目の前で死んだし、自分のせいで多くの人が死に世界がめちゃくちゃになったことも全部引っくるめて、それを自死だとか被害者面して何もしないで廃人と化すだとかいう道を選ばずに、個人だけではどうにもならないことも理解した上でかつて自分が酷い目にあったヴィレという組織とコンタクトをとって頭を下げてでも自分の成すべきことに力を貸してもらう覚悟を。そう考えるとむしろ良くもまぁあんな短時間で立ち直ったなと思えるほどである。この項の冒頭でシンジくんは「現実に還る」という選択をした、と書いたがここが序や破での一見成長しているかのように見えるシンジくんとの大きな違いだと思う。破のラストでもシンジくんは綾波を助ける為に大立ち回りを演じるが、例えばあそこでミサトさんの行きなさいの代わりに誰かが今そこで綾波を助けると世界がめちゃくちゃになっていっぱい死者が出るぞそれでもやるのか?と言われたら恐らく躊躇したはずだろう。現実的な選択をする、自身で決断する、という行為は想像以上に酷である。Qのシンジくんが槍でやり直す、を選んだようにもしかしたらエヴァの謎パワーを使えば全て時間が巻き戻ってみんな元通りハッピーにもなれるかもしれないのだ。カヲルくんが言ってたようなみんなが助かる方法というのもどこかにあるのかもしれない。にも関わらず、シンジくんはそれまでの自分の行動の結果を全て受け入れ、自らがやるべき、そして自分しかやれないことをする為に行動を起こすという選択をする。もしかしたらその先に待つなんらかの行為で今こうしてのどかに暮らしている人たちの生活を奪ってしまうかもしれない。アスカもミサトさんも殺してしまうかもしれない。それでも決断したシンジくんを見て、ああなんかもうここでエヴァ終わってもいいや、とさえ思ってしまった。あの時参号機ごと使徒化したアスカを助けることも殺すこともできなかったシンジくんが…マブラヴオルタのタケルちゃんですらあそこまでボコボコに打ちのめされた後に決めた覚悟でもっても冥夜ごとあ号標的を撃つことに躊躇したというのに。シンジくんマジで大人になった。そしてその成長を裏付けるのがアヤナミの消滅である。最初こそ綾波と同じ姿形をしているアヤナミに対して敵意を向けていたシンジくんだったがその後打ち解け始め、綾波レイという名前をあげようと思った矢先のアレはきっと今までのシンジくんなら耐えられなかっただろう。でもまだ彼は前を向く。

そしてシーンは戦闘色が強くなっていく。自らの意志でDSSチョーカーをはめるシンジくん。死ぬほど会いたくないであろう変わってしまった(と思ってる)ミサトさんにもちゃんと向き合う覚悟を決め、最後は親父を殺してでも計画を完遂する決断をする。繰り返しになるが、自分の中では村のラストシーン辺りでシンジくんが現実に還る選択と覚悟を決めたことが分かったので以降のシーンはここから物語が破綻するのではないかという不安がなくかなり素直に楽しめた。庵野がやりたかったであろう艦隊決戦だったりバスターマシン7号みたいなゲンドウだったり怒涛の専門用語の乱発であったりともうサービスサービス~がすぎるぐらいの展開が続いていく。エヴァってそもそもの作品の軸は割と明確なのに敢えてこういう難しい用語を入れて難解にして庵野秀明の描きたいシーンを挿入していくきらいがあるのでこの辺はもうウキウキしながら聞き流していた。インパクト何個あるんだよ…とかサードの発動条件の設定どこいったんだよ…とか。ちゃんと考察すれば整合性は取れるんだろうけど考えると置いてかれるのがエヴァなのだ。あとカッコいいシーンといえば、最後に艦に残ったミサトさんファイナルフュージョン承認よろしくボタンブチ押すシーンがあったけど、複数個あったのが笑ってしまった。あんなハイテク艦なのになんというローテクロマン…

そして訪れる親子タイム。その前に冬月とマリの会話からマリの設定は漫画版とほぼ一緒っぽいことがわかったりこれまた親切設計。エヴァ同士の親子喧嘩から始まり対話モードへ。ゲンドウ、大体どのエヴァを通しても最終目標はユイさんに会いたいだけどもあんなに自分を吐露するとは思わなかった。相変わらずなんとかインパクトが同時進行中だし裏宇宙とかなんとかで行われている対話だから一瞬話を見失いそうになるけど、世界をここまでしてユイさんともう一度会いたかった理由をつらつら並べていく。その様はまるで昔のシンジくんのようだけども、この時点で既にシンジくんは覚悟完了しているので相対的に父親であるゲンドウの方が弱く見えてしまう。息子に諭されたこと、父親である自覚、こうしてゲンドウは物語を降りる決断をする。親子といえば今回はミサトさんにもスポットが当たっていた。旧作では主にミサトさんの親との関係が中心だったが、今回はなんとミサトさんが母親になっていた。これまでどちらかというとミサトさんはシンジくんの母親(保護者)のような役割を担っていた。加えて、視聴者はユイさんと初号機のある程度の関係を知ってはいるが、それを知らないシンジくんにとっては恐らく最も身近な母性はミサトさんだったんだろう。そんな作品の母性代表みたいなミサトさんが、なんだかんだでシンジくんを守りたいが為にQで敢えて辛いことを言って取り付く島を与えなかったり、世界を助ける為に息子に存在を教えなかったり、それでもシンジくんと息子の写真を最後に貼り付けて作業したりと最後まで母親の役目を全うできなかったのは、本当の母親としては最後まで未熟なままだったことを表現していたのかな、と思った。あのゲンドウですら対話の俎上に乗っただけに。全体的に終盤は色んなことが起こりすぎてわけがわからなくなっていたけども、初号機に取り込まれた綾波、旧劇のような風景の場所にいるアスカ、カヲルくんも含めて一人一人とちゃんと対話をして丁寧に物語は撤収の準備を始める。やっぱりボコられる弐号機、旧劇もTV版も漫画版も全てなかったことにせず、閉じていく物語。そして最後に正真正銘親子となって父母に抱かれるシンジくん。この辺恐らく順序ぐちゃぐちゃだろうけどただただ感慨深くあ然としていた。そしてシーンは庵野秀明の生まれ故郷宇部へと移りラストシーンへ。反対側ホームにいる劇中で死んだチームのキャラ。あのカヲルくん死ぬほどイケメンだよね。綾波もめちゃくちゃかわいいしやっぱりこんなにかわいい女の子は普通こういうイケメンと一緒にいるよな、と謎に現実を突きつけられてしまった。そしてこれから続いていく辛い現実のメタファーであるネクタイを締めた社会人風のシンジくんと約束通りシンジくんを回収できたマリ。漫画版の感じだと恐らくマリは相当ユイさんのことが好きだったはずなのでそういう流れもあってあの二人は今後ああいう関係になっていくんではないか。とはいえなんかもうこの辺は解釈の余地ありありなので。 

  • 終わりに

エヴァという作品は好きだけど嫌いな作品だった。だってズルいんだもん。TV版でシンジくんが内面に籠もる選択をしても結局見てるこっちは年も取るし生活は続いていく。生きてる限り楽しいことはあるかもしれないけども基本的に社会に出るということは不条理の海に叩き落とされるようなものである。学生の頃までは素直に見ることができていたエヴァにあまり感情移入できなかったのはきっとそんなウジウジが許されるシンジくんに嫉妬していたからなんだろう。だから、以降はフルメタル・パニックのソースケだったり、グレンラガンのシモンだったり、マブラヴオルタネイティヴのタケルちゃんだったり、自分の強い意志で道を切り開いていくタイプの作品を気に入ることが多くなっていった。ただ、破のラストを見た時にもしかしてシンジくんはこの新劇で彼らのように現実に還る選択をちゃんとするんじゃないかという想いが頭に浮かんだのも事実だった。が結局Qでそれは霧散した。というかそうなるわけない、そうなって欲しくないと思ってただけなのかもしれない。先の3作品の主人公はめちゃくちゃ辛い思いをしてめちゃくちゃ辛い現実に死ぬほど打ちのめされてその上最良とはいえない結果を突きつけられる。シモンなんか特に。こういう作品は成長物語としてのカタルシスはあるけどもここまで辛い決断をしていかないとやっぱり道って拓けないんだという絶望感も同時に与えてくれる。現実の辛さ厳しさ残酷さをまざまざと見せつけてくるのだ。そんな中である意味いつまでもウジウジしてくれて25年近くも決断しないシンジくんは最後の希望のような存在だったのかもしれない。でもそんな彼も現実に還るという決断を勇気をもって下して必死に行動した。マブラヴでいうところの「あなたの勇気が 切り拓く未来」である。よく旧劇は庵野秀明がオタクを見放した、お前ら現実見ろよ、と言った作品であるかのような文脈で語られるが、それでもこっちとしてはじゃあお前もちゃんと自分の作品内で出した問題の答え自分で出せよ、と今までは言い返すことができた。しかしこうも完璧に作品を完成させられ、ぐうの音も出ないほどのものを見せられるとそれすら言えなくなる。結局自分は「なんだかんだで終わらないエヴァ」に甘えてたんだなという現実をまざまざと見せつけられた。今作ではお約束のポストクレジットシーンすらない。一応完結したシン・ゴジラですら不穏な考察の余地を残すポストクレジットシーンがあったのに見事なまでの終劇であった。

エヴァとその後のポストエヴァ時代は自分の人格形成に多大な影響を与えた。そしてそのエヴァが未完であるが故に、ある意味こんな俺にした責任ちゃんととってくれよと文句を言うことができた。が、完結した今そんな文句を言う相手もいない。もちろんまだまだ考察の余地はあるし、昔のように専門用語一個一個を検討して盛り上がることもできるだろう。専門用語が並んだ特典の冊子はそういう意味も含まれていたんじゃないか。しかし物語は終わってしまった。幕は閉じたのだ。それにしても、約25年。しかもシェアードワールドなしでこの作品寿命である(厳密には碇シンジ育成計画とか色々あるはあるけど)。

結局、エヴァは本当に凄いコンテンツだった。素晴らしい作品だった。そしてこの作品が作った時代をリアルタイムで生きることができて本当に良かった。

以上、一切推敲なしで勢いで書いた恐らく死ぬほど読みにくい文章をここまで読んで頂きありがとうございました。これがエヴァへの卒業文集。